離婚、幼児虐待をくり返す人1
- シリーズ2

「人を愛してはいけない」
マリリン・モンローは、1926年に父親のいない家庭に生まれました。母親のグラデスは、この子を当時の映画スターで人気の絶頂であったノーマ・タルマッジにちなんで、ノーマ・ジーンと名付けました。
母親はハリウッドの撮影所でフィルムカッターの仕事をしなら生計を立てていました。そのためノーマ・ジーンは生後間もなく、親戚や他人にあずけられることになり、16歳で結婚するまでに十ヵ所以上の家を転々としたそうです。
といっても彼女はまったく実母の愛を知らなかったわけではありません。母親のグラデスは、母と子が共に暮らせるように努力したようで、ノーマ・ジーンが7歳になった時には、ハリウッドの借家に引っ越しています。
ハリウッドに移ってからの彼女は、母親が留守の間よく一人で映画を見ながら過ごしたということです。しかしこうした楽しい日々も間もなくグラデスの発病(精神病といられる)によって、突如として奪い去られてしまいました。
ノーマ・ジーンは、再びいく人かの養育者の間をたらい回しされ、一時は1年余りにわたって孤児院で過ごしています。
16歳の時、彼女は養育者たちのすすめに従って、近所の青年ジム・ドガティと結婚しましたが、折しも第二次世界大戦中であったため、ジムは従軍することになりました。
夫の留守の間に、ノーマはパラシュート工場に働きに出ましたが、たまたまそこに取材にきた軍のニュースカメラマンのモデルになったことから、それまで静かだった彼女の人生に、大きな転機が訪れることになります。
ノーマは次々とモデルの仕事を引き受け、それを足場に映画界への道をまっしぐらに進み始めます。
こうして20歳の時にジムと離婚し祖母の姓とかつての一女優の名とを合わせて、マリリン・モンローと名乗るようになるのです。ちなみに祖母は彼女が1歳の時に精神病院で亡くなっています。
とはいえ女優生活の初期のマリリンは、せいぜい端役として演出できるくらいで、何度か失業の憂き目にも遭い十分な食事もとらずに過ごす日すらあったといいます。
しかしなぜか、こうした彼女の前に救いの手を差し伸べる人が必ず現れるのです。マリリンに出会ったタレントスカウトや演出家たちは、大抵みなまるで「捨て猫」のようにな、あわれな彼女に接すると何とか助けてやりたいちいう気持ちに駆られるのです。
かくしてマリリンは、優れた声楽のコーチ(フレッド・カーガー)、母親のようなドラマコーチ(ナターシャ・ライテス)、有能な俳優斡旋業者(ジョニー・ハイド)らの救援者を得て、映画界に徐々にその基盤を築いていきました。
しかし会社側はマリリンを単に頭の弱い喜劇女優として相手にするだけでした。マリリン自身もこの間、野心のあまり何人かの映画関係者の情人となっていて「尻軽なセックスシンボル」といったイメージを自ら作り上げていった面のあることも否めません。
しかし彼女はこうした人々との関係が、女優を通して自己を実現したいという自分の最終の望みにとって妨げとなることに徐々に気づくようになりました。そのため精神分析を受けたり、俳優学校に通って演技の基礎を学ぶなど自分を成長させるために、かなりの努力をして、やがてマリリンにも女優としての最も華やかな時代が到来します。
この時期に彼女は二人の著名な男性と結婚し、そのどちらとも離婚に終わっています。プロ野球のスター選手、ジョー・ディマジオと会った時、彼女は「銀行の頭取のように落ち着いた」彼の姿にひかれたと述べています。
しかし実際に二人の生活が、仕事を離れた静かな、落ち着いたものになると彼女は、初婚のドガティとの場合も同じだったように、それに耐えられないといった様子で、活動と興奮を求めて外に出て行くのでした。
朝鮮戦線を慰問してGIたちの熱狂的な歓迎を受け「生涯最高の瞬間」を満悦している彼女の姿や、映画『七年目の浮気』のロケーションで、ニューヨークの地下鉄の排気口の上に立ち、スカートを大きく舞わせて、大観衆の口笛に無邪気に応える彼女の姿に、ディマジオは激怒し、やがてモンローから去ってゆくのです。
戯曲『セールスマンの死』などで知られる劇作家アーサー・ミラーとの恋愛と結婚は、映画ファンばかりでなく、知識人たちをもあっといわせる事件でした。ミラーは、彼女の生来備わる優れた感受性にひかれ、芸術家としてのマリリン・モンローを育てようとして、世間の批判もかえりみず彼女との結婚に踏み切るのです。マリリンも彼のことを「パパ」と呼んで慕い、今までにない安息所をそこに見出したかのように見えました。
しかし映画『王様と踊り子』のロケ先の英国で、彼女は夫ミラーを仕事上のトラブルのなかへ深く引きずり込んでいくのでした。ミラーは睡眠剤中毒に陥ったマリリンの看病に疲れ果ててしまいますが、米国に戻ると、静かな牧場を買って、再び二人の生活を立て直しに努めました。
しかしそれも束の間、またまた都会と大衆を求めて映画界に戻ろうとする妻に対して、ミラーの愛は怒りと拒絶へと変わっていったのでした。これに対し、彼女は俳優イブ・モンタンとの情事などで報復し、ついにミラーを絶望のうちに、彼女のもとから去れせてしまうのです。
1960年の夏、ミラーとの離婚話が噂される中でマリリンは彼女の最後の映画となった『荒馬と女』に出演しました。これはミラーの作品で原作は「不適応者」というもので、彼女の性格をそのまま投影したような映画です。この仕事中に彼女の心理状態はますます悪化し途中、精神科に入院を余儀なくされています。
この映画が完成した直後に、彼女が幼児から「理想の父」のようにあがめ、今や現実の共演者となったクラーク・ゲーブルが突然、心臓発作で死亡するという事件に遭います。マスコミがこの死をもたらしたのは、さんざんに撮影スタッフを手こずらせて、ゲーブルを過労に追い込んだマリリンのせいだと報道した時、彼女は自殺への強い衝動に駆られました。
こうして自己破壊へと邁進するマリリンの人生にも、たとえ短期間とはいえ、深い人間愛と理解のもとで、自分というものを本当に生きた、充実した時期があったようです。
1955年ジョー・ディマジオとの離婚後、彼女は演出家のリー・ストラスバーグの門を叩きました。もともと舞台の監督を専門とするストラスバーグは、父親のような態度でマリリンを受け入れ、彼女の豊かな感受性が性格女優として開花するように指導していきました。ストラスバーグは、芸術家として何より自己を創造することが必要であると強調し、マリリンが人の心の世界をより深く把握できるようになるために精神分析を受けに通ったのもこの頃です。
こうした修練の成果は、彼女の後期の映画のいくつかに現れるようになり、世間も肉体女優というイメージから抜け出したマリリン・モンローを認め始めたのです。
しかしこうした「本当の女優」への真剣な努力は、性的シンボルとしての商品価値を重んじる製作者側と、かえって衝突を起こす原因にもなっていきました。彼女は撮影の間、ストラスバーグ夫人のポーラを片時もそばから離せない状態になります。これは初期に演劇コーチのナターシャにべったりと依存して、監督たちの間で絶えずトラブルを起こしていたパターンとそっくりでした。
こうした悪循環が進むにつれて、彼女に対する会社側の態度は、硬化の一途をたどることになるのです。
アーサー・ミラーと別れた後、マリリンはうつ病と睡眠薬中毒のために、昼夜、苦しむといった病的な状態でハリウッドに戻りますが、結局その後の映画は完成せずに終わっています。会社との対立は激しさを増し、ついに会社との契約期間中に無断でケネディ大統領の誕生パーティーに参加したことが原因でクビにされてしまいます。
この事件以降、彼女の病状は悪化し、精神分析医グリーンスンの援助を求めましたが、ついに立ち直ることはできませんでした(ケネディとの情事があったことも、彼女の不安を増加した一因といわれていますが、明らかではありません)1962年8月の最初の日曜日の朝、マリリン・モンローは睡眠薬の眠りから目が覚めず、36歳でその生涯の幕を閉じたのです。
マリリン・モンローは、その生涯を通して親密な愛を求めながら、しかしそれを維持することを自ら拒んだといえましょう。母親が与えてくれるような保護が欲しいという、あくことなき願望、これに対してなぜか愛を拒絶しないではいられないという、強迫的な傾向、この二つの力の間で戦い抜いたあげく、彼女はついに自らを死へと駆り立てたといえます。
もし子供が、父親を知らずに生まれ、母親以外の人々手で育てられた後、ようやく大好きな母親と一緒に暮らせると喜んだ矢先、その母親までも病気で奪われてしまったとしたら、その子は一体、自分と世の中をどのように見ることでしょう。しかもその後も養子に迎えてくれた人々が、結局最後にまた自分をよそにあずけてしまうという体験を重ねたとしたら、その子は世の中の愛情というものをどう受け取るでしょうか。
「お前は可愛い子だよ。アイ・ラブ・ユー」といってくれた大人たちが、なぜ私を次から次へとたらい回しにするのだろう?どうしてこんなことが私には起こるんだろう?
最初の養親であるボレンダー夫妻をはじめ、ノーマ・ジーンを引き取って育てた人々の多くは、愛情に満ちた人たちで、彼女を我が子同様に可愛がりました。ノーマが虐待されて育ったという記録はないようです。
こうした人々のおかげで、彼女はその一生の大半を精神病院で過ごすといった最悪の状態を避けて、成長することができたといえましょう。
しかしそれぞれの養親者たちは、彼女をあわれに思い愛情をかけながら再後にはさまざまな現実的な理由から、他人の手にゆだねていきました。このような大人たちの愛の結末から、ノーマの C はどんな禁止令を受けたことになるでしょう。おそらくそれは「愛は必ず途中で失わなければならない」ということになるでしょう。
しかもこの命令は、祖母や母親の生き方のサンプルによって強化され、きわめて悲惨な方向づけをされているのです。
こうした非建設的な人間関係のあり方についての禁止令が、最後まで解放されずに終わったことは、マリリンの生涯に見られる、いくつもの離婚、継絶、仲間割れ、そして最後の死という、一連の離別のエピソードを見る時、明らかです。
いく人もの人々が、マリリンを救わなければならないという気持ちには駆られて彼女の人生に踏み込んできます。
しかし究極的には孤独な死を目指して進行している、彼女の「持続なき愛」という脚本に遭遇して、誰もが惨めな敗北をこうむり、退くことになったのです。
