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くり返される不快な交流ゲームとは

  • シリーズ2

ゲームというコミュニケーションは、周囲から愛情や関心を得られずに育った人が、相手の怒りや嫌悪感、蔑視といったマイナス感情をかきたててまで、自分の存在を認めてほしいと思ってしかけるのです。

当然ながらゲームの結末で味わう感情は、本人にとっても周囲にとっても不快なものになります。
したがってゲームに気づく有効な方法の一つは、自分の感情に注目することです。
もしある人との人間関係で、くり返しくり返し不快な気分を味わう時はゲームにまきこまれていると考えた方がよいでしょう。

たとえば、何度もこみあげてくる怒りをこらえたあげく、逆にこちらの「堪忍袋の緒が切れて」部下や子供を罵倒してしまい、その後で自分も罪悪感にかられるようであれば、相手がゲーム(怒りの挑発)に乗ってしまったと見るべきでしょう。

ゲームにともなう主な感情は、怒り・劣等感・憎悪の念・抑うつの気分・恐怖・疑いなどです。
誰かとの人間関係で、こうした不快な感情をくり返し体験する時は、ゲームを疑ってみるべきでしょう。

ゲームは定期預金にたとえるとよくわかります。つまり一定量の不快感情をため込むと、定期預金が満期をむかえた時と同じように、自動的にそれを軽減する必要が起こるのです。

奥さんからバカにされたと感じ、ぐっとこらえると「怒り」という口座になにがしか貯金したことになります。
あるいは職場で密かに不正な行為をすると「罪悪感」の額が増します。やがてそれらの感情預金が満期になると、ある日、奥さんの目にアザを作ったり、交通事故(自己処罰)を起こしたりすることになるのです。

ゲームを演じる人々が、一幕終わってほとぼりがさめたときに決まっていうのが「どうして、あんなバカなことをしたのだろう」とか「頭では分かっているのだが、その場になると、もうブレーキが効かなくなってしまう」といった類の言葉です。ここにゲームに気づく、さらにはゲームをやめる難しさが現れています。

そもそも人は、非建設的な結末を予想しながらも、なぜ敢えてゲームを演じるのでしょうか。
交流分析では、これは幼時から身についているある種の歪んだ感情が、現在の理性の働きを支配しているためであると考えます。

幼い子にとって、親の愛は絶対に欠かせないものです。親から見捨てられたり、無視されたりすることほど不安なことはありません。
そこで何らかの理由で、親から温かい、まともな愛情や注目をもらえないと感じると、子供は”次善の策”を選ぶようになります。たとえば、親からまったく無視されるよりは、夜尿やけがをしてでも親の注意を引き、尻を叩かれる方がはるかによいと考えるのです。

子供にとっては、親から自分の存在を認めてもらうために、常に人騒がせな事件を起こしたり、簡単なことを一捻りしてこじらせるなど、不快な非建設的な人間関係を営む癖を身につけてゆくこともあります。

幼い頃の愛情の求め方が習慣となり、ゲームのパターンの原型を作り上げるのです。
しかし理性的な判断ができるはずの大人になっても、なぜ人は幼児期に身につけた習慣に左右されるのでしょうか。
分別のつく大人になれば、そのような不毛なゲームを演じる無意味さに気づくはずだと誰でも思うことでしょう。


この点を理解していただくために、次回、交流分析で用いる三つの私?つまり「自我状態」について説明しましょう。

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